2024年2月9日金曜日

2024年2月5日月曜日 爲替取扱所・郵便受取所の為替事情( JAPEX2023出展リーフ反省記)ー「審査評」に対しての自己総括

 「審査評」に対する反論ではなく、それを基に自分なりの総括を試みるための短文です。

某大臣のごとく「どのような意見もありがたく受け取る」立場は変わらず、他者から見た自分のコレクションに対する意見というのは得難いものがあります。

まず、講評者に対して敬意を込めてお礼を申し上げます。

頂いた講評は次のとおりです。













何となく「違和感」を覚えました。この展示はタイトルリーフ冒頭のとおり「経済活動としての為替史」を示そうとしたものですが、講評者の念頭には「郵便史=制度史」との発想があったのではないでしょうか。

これは正当で何ら非難されるべきでない考えであって、従来構築されてきた郵便史はほぼ制度史です。

制度は為政者(遞信省)の考えたシステム設計です。例えば郵便の逓送路や結束時刻・時間などがこれに該当します。

しかしこの展示は、郵便為替用紙の様式の変遷や外国為替との交換制度を追いかけたりするものではなく、その制度設計が利用された結果を(数値を含めて)できるだけ体系的に示してみようという試みです。

狭義の郵便史に例えるなら、郵便逓送路の確定ではなく各路線ごとの郵便物数の経年変化を統計史料で追跡する ーというような作業です。

したがって「郵便史の作品には見えない部分があります」という辛辣な意見も制度史の観点からならば頷けますが、出展者には居丈高で心無い講評と感じられます。

同じく、「多くのリーフが東京、大阪、京都、神戸(原文は神戸)と言った特定の地域の為替印の展示」との批判も為替の枚数・金額を含めた経済活動史との立場ならば1フレームを充てるのは当然の帰結であるはずです。

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再述しますが、これは講評者に対する展示者の身の程知らずの批判ではなく、展示方法や書き込みの稚拙さが生み出した誤解という展示者側の反省すべき事柄です。

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講評の「郵便史として、このテーマで展開するなら、明治8年に始まった為替制度の歴史の展開を中心に置き」との一文が、経済活動史を中心にしたものは郵便史にカテゴライズされないとの宣言のように聞こえます。

郵趣は科学・学問・学術ではなく所詮道楽の世界です(理論構築の手法は科学的でなければいけませんが)。科学でも旧来のカテゴリーはどんどん破砕されていくご時世です。須らく郵趣人たるもの、自由な発想を妨げないような配慮は学者以上に必要ではないでしょうか。

もうひとつ展示者として反省すべきは、第1・第2フレームが「単なる各地地誌のアキュムレーション」に堕していないかという点です。

これこそが最も恐れていた点です。せっかく第27リーフで各都市の為替超過額を棒グラフで示しているのですから、せめて全リーフを通じて「各該当県/全国」の為替量(枚数・金額)の円グラフを示すのは最低限必要だったとの想いがあります。

さらに言えば、前回投稿のGDEと密接につながる県ごとの年度末郵便貯金残高もです。

もとより金持県/貧乏県の判別ではありません。和歌山県を例に挙げます。

明治27年度和歌山の外国為替払渡超過額は2,624円=和歌山ミカンのGDE増加貢献額

同年度全国の外国為替払渡超過額は300,624円⇒和歌山ミカンのGDE増加貢献度は0.9%

リーフに書き込まなかったのは橋向町も久保町も未収だったからです。

全国統計では全くわからない地域ごとの特色が市や県単位に分けるといろいろと見えてきます。しかし上述の「地誌のアキュムレーション」だけでは物足りなく、為替の経済史らしくするのに苦心の途上です。県ごとのGDEや人口分布も考慮しなければ満足できるものにはなりそうもありません。

(それならサッサとやれよ ーとのお声はごもっともですが…)

講評はさらに続けて、

「郵便受取所時代の為替がどのような経済的役割を果たし、取扱、発展を遂げたのかという、為替関連のマテリアル中心の展開」

を要求しておられます。

世に行われている制度史的郵便史からの連想ではないかとも思われるセンテンスですが、為替式紙を何十枚か並べたところで何か主張できるというものでないことは第1・第2フレームを見ればわかることです。

為替取扱所の始まりは「年を追って急増する為替量のうち局で捌き切れない分の補助を民間に託した」ことに尽きます。受取所が単独で果たした経済的役割というものは存在しません。

なお季節開設の郵便電信取扱所は例外で、西ヨーロッパ・東アジア・北米とのリンク役を果たしています。

その為替量を局別・受取所別に振出・払渡が何枚何円/1時間で示せる県・市もあるし不明の県・市もあるという以上のことは残存史料では解明できません。ただ類推はできます。

受取所の発展というものもあり得ません。明治38年4月1日にすべて三等郵便局に収れんされてしまいます。(温泉・中宮祠は二等局)

もちろん講評者も「マテリアル的には難しい」と認識しておられますが、具体的に何を指しておられるのかこの講評文だけでは私には皆目見当がつきません。為替の経済史には統計史料の方が大切と思っています。

為替の経済史全体から見れば、第40リーフの戦時国債を郵便局で扱ったこと(證書送達)と手形交換所に為替が持ち込まれたこと(交換払)などは、今回の展示で自慢できることの一つです。数字を含めて示すことができました。

しかしこれも受取所単独で果たした役割ではありません。戦時国債に至っては受取所では取り扱っていません。

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結びに

偉そうなことをいろいろと書きましたが、もとを糾せば完成済みの縦書印マルコフィリーに飽き足らず、何か色を付けられないか ーという程度の代物です。

しかしマルコフィリーならばドヤ顔のできる品物をそろえたつもりです。

講評者もその辺は見抜いて、「消印はたくさん並んでいるが」との趣旨を述べておられます。

弁解ながら、タイトルリーフに書いたとおり「将来完成させるべき為替史の基礎資料/試論」ということでご理解賜ればと思っています。

文末ながらも講評者には改めてお礼を申し述べます。














2024年2月5日月曜日

爲替取扱所・郵便受取所の為替事情( JAPEX2023出展リーフ反省記)ー第3フレーム

 この展示のテーマである「明治29年までに為替が開始された受取所」については何とかフレーム跨ぎなどの作法を崩すことなく2フレームに収めることができました。

ところが郵便史は3フレーム必要です。本来ならば、明治30年以降の受取所についての概括と全体の結論となるべきマテリアルを第3フレームに収めるべきです。

しかし「全体の結論」なるものは未だ整理できていません。受取所のマルコフィリーは完成されて久しいのですが、為替史などというものは誰も考えたことのない分野です。

致し方なく、それらしき材料を並べて誤魔化すようなリーフ展開になってしまいました。

事程左様にズボラをかました出展ですので、「金」も「大」も付かない銀賞でも御の字かとも思われますが、未開の分野に挑んだことは事実として残しておきたいと考えています。



全体の総括ということであれば、受取所に限定せず郵便為替全体の変遷を見る必要があります。

第3フレームを、全国にある同名局の整理から入ったのは悔やまれます。マルコフィリーの重要な課題ではありますが郵便為替史としては縁の薄い事項です。

敢えて理屈付けをするなら憲法成立年=明治23年から金本位制施行年=明治30年までの間に為替を扱う局・所が1,952箇所から3,028箇所に増加したことの当然の帰結として局名整理が行われた ーという程のことしかありません。




















フレーム第1列の右端にようやく明治30年以降の受取所の登場です。
通常、「受取所の一斉改称」は明治31年11月17日のことを指しますが、その前年に行われた大阪の一斉改称についての評価は顧みられたことがありません。

果たして(一斉改称を試行したかった)遞信省の指示によるものであるのか、市域の拡大に伴うなどの独自の事象なのか不明です。改称の手法も両年で趣を異にしていて、大阪は所名を簡潔明瞭にする傾向があるのに対し、全国版は區名や市名を挿入するという単純な手法を採用しています。




















このリーフも為替史の中核部分からみれば木に竹を継いだような異様さがあります。
経済の急速な膨張に伴って、為替のみならず電信も急拡大したのですがそれを表現するのにマルコフィリーの郵電局表示形式を並べるのは多少気が引けます。
せめてリーフ下部の表を折れ線グラフで表せば良かったのですが…。

ついでながら、リーフ上部に引用した遞信省年報の要点は「事務の整理」ではなく「職員削減=人件費節減」にあることは明らかで、具体的には局長俸給を指しています。

従来の局長の俸給が15円であれば、電信局と郵便局とで30円必要であったのを、郵便局長の上級職に郵電局長を新設して18円の俸給に設定すれば12円/局の節減です。

明治29年度では、964局×12円×12月≒13万円ほど節約できこれを局数拡大に伴う一般吏員増加分の俸給に充てることができます。
(俸給8円でも1,000人分以上に相当します)

面倒な理屈はさて措いて、本当は振分型5局の赤二揃えを自慢したかった
ーとは余談です。


































第38リーフ下部のグラフも言葉足らずで、全国の有料電報のうちデータの残る4年度間で見ると6~7割は郵電局所から発せられたことはわかりますが、郵・電局(所)数の増加もGDPの拡大も入っていません。




















郵電一体化で一列のうち3リーフを使い1リーフ余るので、そこにこの戦時国債を入れました。

「證書送達」印は珍しいものではありませんが、その正体を紹介するのはこのリーフが初めてだと思います。

日露戦争の戦費調達の一手段で、大半は外債に拠ったとのことですが国内債も一役買っています。

他に当然増税もありましたが、蔵相が財界に「悪法は承知の上でお願いする」と頭を下げた逸話が残っています。

リーフ書き込みのとおり、まず日銀総裁の首を挿げ替えて国債は日銀が買支えをするという構図です。MMT理論の犠牲となった前々総裁も…。戦争好きの権力のやることはこんなもんです。




































この「郵便電信取扱所」も他の郵便受取所と同様に民間委託です。したがって遞信省職員録には所名も所長名も掲載されていません。

しかしながら、局・所としての格付けは2等局相当で明治38年4月の全受取所廃止に際しては2等郵便局に格付けされています。(一般の受取所は3等局に改定)

民間運営ながら集配まで受け持ち、土地柄で常に外国郵便を頻繁に取り扱うとなればしかるべき措置と思われますが、中宮祠の方は欧米の公使や書記官のためのサービス機関そのものです。
何らかの形で外務省が関わった運営と見るべきでしょう。


































この2リーフは郵便貯金ですが、為替と貯金の関係を私はまだ整理できていません。直接に相関性を求めるのは強引すぎます。

リーフNr.27の下部に示した表を基に、為替の払渡超過額と貯金残高とを比較してみました。










折線グラフで表すべきものではありませんが、為替額との比較で見やすくしました。
東京府を除けばどの県もよく似た数字ですが京都・大阪・愛知だけは百万円前後に達しています。

また北海道は振出超過のトップクラスですが、貯金残高は京都・大阪に次ぐ大きさです。
換言すれば非常に大きい購買力を持っていたことになります。
これは屯田兵や道庁の役人に支払われた俸給に由来すると思われます。ざっと3万人程度です。

敢えて県ごとの「豊かさ」(県民ごとの豊かさではない)を求めるとするならば、為替の払渡超過額ではなく、貯金残高に求めるべきでしょう。

三面等価則のうちGDEの大半を占めるのは、個人所得・企業所得です。為替も貯金も経済活動のうちのリテール部分(為替は遠隔地取引のみ)を担っていますので、貯金残高はそのまま個人所得+中小零細企業の余剰所得にほぼ等しいはずです。




















為替が手形交換所に持ち込まれた経緯はリーフに示したとおりですが、こんな大きな出来事が話題にならないのは不思議です。
世に櫛型の朱印として珍重されているだけで、由来を説明した人は皆無です。




















最終リーフは大量の為替・貯金情報を管理する機関です。
当初は為替貯金局の一元管理であったものが、日露戦争の軍事為替管理等の都合もあり、大阪・下關の2支所開設、さらに情報の分散に不都合を感じ再度一元管理に戻ります。

一元管理後は帳簿式からカード式に切り替えられましたが、この規模になると誤記に基づく違算は恒常的に発生し、事務葉書を使用した口座開設者への照会状がいくらか残存し、照会文は何種類か印刷されています。日付印は当然遞信省構内の丸二や櫛型ですので目立ちます。

フレームごとの紹介はこれで終わりますが、次回はJPSから頂いた講評を紹介し、私なりの考えも書く予定です。




2024年1月16日火曜日

爲替取扱所・郵便受取所の為替事情( JAPEX2023出展リーフ反省記)ー第2フレーム

 続いて第二フレームは北から順に地方都市を見ていきます。まず北海道です。















豐平の爲替取扱所は現存が危ぶまれる印影です。道の統計は郵便局業務に限っては年度単位で掲出しています。データを提供する札幌局が暦年に書き換えるのを拒否したようです。

リーフに示したように明治17年に開設されていた受取所が突然為替・貯金業務を開始しています。取扱量が小さいので多額の自己資金は必要なかったと思われますが、第7師団からの要望に従ったとしか思えません。

小樽の港町は、猪野氏が「褐色印を使用した唯一の受取所」として紹介されてます。しかし初期と後期の短い期間は黒色印です。

この港町と次の鶴岡町とはそれぞれの所管郵便局に対して地理的に相互補完的な役割を果たしていたようです。

東北です。













東北には受取所の取扱量を示すデータは見当たりません。どこかの県立図書館や東北大学あたりに未発表の統計書があるやもしれませんので、ご存じの方はご教示を。

奥野は受取所が明治19年、貯金預所が25年に開設され29年に為替を扱うと同時に浦町から奥野に改称されていますので、豐平とは異なり順当な事業拡張のようですがロケーションは悪く、局代替の受取所と考えられます。

靑森町編入前に、かつ市制施行前に「靑森市の奥野」を名乗るのは或いは事実上そのような位置づけが黙認されていたのかもしれませんが今となっては不明です。

岩手・山形は地理的に局と地域分担をしていたと思います。













万葉集の相聞に出てきそうな地名ではありますが、政宗公が徒歩武士の中の選抜メンバー(御名懸組)を住まわせた町とのことです。

秋田の上通町とともに地理的分担を担ったと考えています。

關八州に移ります。下野から。













宇都宮大工町のktは以前ずいぶん良い値で取引されていましたが今だと如何ほどでしょう。

宇都宮市為替取引の1/4を分担しています。値が張るのは為替量に由来するものではなく、半年弱という使用期間の短さに起因するものですが、振出の目的は不明です。

駅前通りの繁華街に位置していますので仕入れ商品の代金という推定はできますが、管轄する宇都宮局の払渡の大きさは何でしょう。宇都宮市は元宇都宮二荒山神社の門前町とのことですが、冥加金にしては規模が大きすぎ、大谷石細工やケヤキなどの引物・曲物にしても同様で県庁の歳入金かもしれません。

このリーフのもう一つのハイライトが古河鉱業の支配する足尾です。足尾局と赤倉とは扱い額が拮抗しています。

所名は「足尾赤倉」で一貫しているのですが縦書印は途中から足尾抜きの赤倉になっているのは、足尾局との対抗意識でしょうか。

足尾局が取集・配達の傍ら為替の取り纏めに通った道は鉱毒を流し続けた渡良瀬川沿いです。













常陸・上野です。

水戸の2箇所は、扱い額の規模から郊外地の局代替受取所のようです。リーフの馬口勞町郵電受取所は誤植で「36.3.31~」です。

下市・馬口勞町ともに縦書の郵電受取所が存在しているはずですが見たことがありません。前橋も市全体の扱い額が小さく、その分残存数も少ないものと思われます。

これに対して、前橋の立川は管轄局総量の1/4を担っています。宇都宮大工町と好一対で商店街に位置しているため扱い額も大きかったのですが、大工町同様使用期間の短さに由来する希少さがあります。













靜岡市はさし渡し2km四方ほどで、その中核地域はお城の南側一帯。ここに官庁街がありその周囲が繁華街です。

追手町が官庁街で、移転先の靜岡本通が繁華街です。税材規模も左程大きくは無く、円グラフに示したとおりです。書き込み漏れですが明治28年度の為替量で、靜岡局の為替単価に「千円」とあるのは「円」の誤植です。

振出・払渡ともに内容不明ですが、官公庁の歳出入金が少なからず含まれているのではないでしょうか。

リーフ下部の加納は残存量からみても局代替の受取所で、駅の南側は小さな集落に過ぎなかったようです。河原湊町も同様と思われますが郵電改定されているので、美濃紙の搬出には便利だったのでしょうか。これも現物がなく詳細不明です。













愛知県の為替量のうち半分ほどが名古屋市で、駅から東に延びる榮町を中心とした繁華街の石町受取所は名古屋局に対してかなりの部分を担い切ったと推測されます。













伊勢の特異形式を持つ両受取所は、従来「親局の名称をI欄に入れた」(猪野氏)と言われていたものです。

リーフの書き込みにあるように明治22年来旧山田町(外宮門前町)と宇治町(内宮門前町)とで合併の際の名称争いがありました。局は旧山田町に所在するためそのまま山田局となっていますが、旧山田町に所在する両受取所は旧町名を冠称したと考えた方が自然かと思います。なお、両受取所と山田局との為替分担比率は不明です。

リーフ下部の紀伊橋向町は見たことがありません。













日本海側に戻ります。加賀・越中ともに管轄局為替総量の1/3程度を担っています。北前船航路の要衝で古くから栄えていた場所です。





越前越後













越前福井の尾上町爲替取扱所はユニーク品です。

越後新潟の本町も難物ですが、これは新潟市の中心部が本土から信濃川で切り離されたような格好になっていてある種の小規模なアウタルキー経済圏を構成していたことに起因すると思われます。

北越鉄道の駅も信濃川の左岸には作られず、当初は沼垂どまりで鉄道会社監査役だった澁澤榮一氏は抗議のため辞任。市民も爆弾騒ぎまで起こして抗議という経緯もあります。













山陰・周防です。

因幡鳥取の立川町は古くは武家屋敷の混在する町人町であったらしく、その位置から郊外の局代替受取所と考えてよさそうですが残存量があり、商業の繁栄ぶりが覗えます。

出雲松江市は宍道湖から中海に流れる大橋川と天神川とを跨いで三分されていますが、いずれにも「本町」があり北から末次本町・本町・雜賀本町だそうです。

本町(末次本町)は官庁街で市内為替の1/6を分担しています。













安藝・備前

京橋町の移転改称後の2受取所は、地元の収集家も見たことがないとのことです。

岡山の東中島町はリーフ書き込みどおり遊郭の中です。市内を流れる旭川の中洲にできた歓楽街。













四国に移ります。德島通町は繁華街に位置する繁盛した受取所。松山の紙屋町もそれなりの繁華街のはずですが、ktは見かけません。

高知農人町は大正末期まで鉄道がなく船舶輸送に依存した土地柄故、船舶が遡上した鏡川河口に位置するだけあって印影の残存も豊富です。













福岡は、海沿いに細長く伸びた形状のため受取所が活躍しています。やはり歴史を誇る博多地区の中石堂町の取扱量が目立ちます。

熊本坪井町は官庁街。水前寺公園に移築され熊本地震で全壊したジェーンズ邸の元の場所がこの坪井町のお隣です。

鹿兒島泉町は為替単価が恐ろしく大きい特異な存在です。













長崎本博多町は残存量こそ豊富ですが、謎に包まれています。市内の逓送経路は

① 長崎港から荷揚げされた郵便・長崎駅に到着した郵便(東京等他局からの局業務連

  絡書文書を含む)は長崎局が受け取ります。

② 長崎局は、駅に行く途中本博多町支局を通ります。

  このとき、

  長崎局は本博多町支局宛の行嚢を持参します。(長崎局→本博多支局の片便)

  同時に駅までの受渡便でもあります。

③ 駅で行嚢の受渡を行いますが、このとき駅駐在の局係員が本博多支局あての

  行嚢を別途拵えます。

④ 長崎局は帰途も本博多支局に立ち寄り支局宛の行嚢を渡し、併せて支局→長崎局

  の行嚢を受け取ったうえ長崎局に帰着します。(本博多支局→長崎局の片便)

長崎局は市内の南端に位置し、本博多支局は市内中心部です。扱い郵便量や為替量はそのほとんどが本博多支局のはずです。(局別史料が残っていませんが容易に推測できます)

支局廃止は市内の集配が全て長崎局の仕事になりますが、支局存続期と同様の受渡便経路を取ったかどうかは不明です。

それはともかく、市中心部での支局廃止というのは利用者、(官尊民卑の時代なら)とりわけ県庁などに大きな負担となります。

そこで受取所の登場となりますが、そもそも支局廃止の理由が不明です。

リーフ書き込みのとおり支局長定数管理の都合と推測しています。支局長級(=二等局長クラス)は身分職でいえば「書記」ですが、明治26年にその定数が1,801人と定められています。

定数は人件費の予算管理のために定められるものですが、廃止の翌年度に二等局は4局の純増になっています。

郵便・為替・電信事業が一般会計に属していたこの時期では、人件費を身軽に増減することができず、最も減らしやすい長崎が狙われたと思われます。

1郵電局+1支局体制は支局の郵便夫と局員とを本局に異動させるだけで不都合なく体制の変更ができます。

ただ局の利用者が困るだけで、本省は「そんなものは一等局たる長崎局で考えてくれ」で済みます。

困った長崎局が出した名案が「郵便受取所新設」です。民間の自発的な開設ではなく、局の意向が強く働いた解説と考えるのが妥当です。

見てきたような解説ですが、以上のように考えるとすっきりと説明できますので自信をもって書いています。













第二フレーム末尾は穴埋め数字合わせのリーフですが絵葉書で地方の市街が題材になるのは(日光や鎌倉大仏などを除いて)ほとんどの場合明治39年以降です。

この展示対象とした時期とは10年ほどの差がありますが、繁華街や市のメインストリートの雰囲気はあまり変わらないと思いますので、受取所から改定された三等局の佇まいを鑑賞いただければ幸いです。



















































2023年12月18日月曜日

爲替取扱所・郵便受取所の為替事情( JAPEX2023出展リーフ反省記)ー第1フレーム

先日開催のJAPEX2023への出展リーフです。郵便電信局・郵便局に対して受取所の果たした役割を個別に見てみようとした展示です。

明治憲法の施行で予算総計主義が確立し、明治23年度から郵便局の受け取る手数料も全て郵便切手で支払うこととなります。為替手数料は切手を縦書為替印で消印するようになりました。この年度から郵便受取所制度の消滅した明治37年度末までをこの展示の対象としています。

この期間は偶々、日清戦争賠償金によって松方財政が結実、念願の金本位制が確立し経済が急激な発展を遂げた時期に合致します。

第一次大戦の期間にはさらに大きな波が来ますが、それはさて措き人口は1.2倍程度の増加に対して国民総支出は3倍以上に膨れ上がっています。国民一人当たり3.2倍の成長です。


このような状況下で遠隔地間の決済のうちリテール部分をほぼ全て担った郵便為替制度の一部として縦書為替印を眺めると、マルコフィリーとは異なる面白さがあります。

とりわけ官業の民間委託である爲替取扱所・郵便受取所は、その営業主が相応の利益を見込んで為替の取扱を開始したはずです。

一般には郵便受取所が為替も取り扱ったと認識されています。間違いではないのですが、為替の受払に必要な準備資金のことを考えると「貯金預所」にその起源を求める方が納得できます。

貯金預所も爲替取扱所も所管局から支払い資金は預かっていますが、超過した額は自己資金で立替えた後、局が利子をつけて補償しています。相応の自己資金が無いとできない業務でした。

この展示では爲替取扱所・郵便受取所・貯金預所を「受取所」と総称していますが、開設の由来を見ると、

   市街地の中心部や繁華街、駅や港の近傍に開設された「コンビニ的な受取所」

 - 為替・貯金の扱い量は市の経済規模に比例し大きい。

    市内の南北など、地理的に局と住み分け分業している場合が多い。

    局の無い郡部の村落や都市の郊外に開設された「局に代替する受取所」

   - 生活圏域の経済規模が小さく、為替・貯金の扱い量も額も小さい。

    為替以外の業務=郵便・貯金が開設の主目的となる。

に大別できます。

この時期は、全国の管轄局から詳細な統計書が刊行されており、国会図書館のサイトでコピーを見ることができます。

局・所ごとの為替の振出と払渡との口数・金額が一の位まで掲出されています。しかし全部は残存していません。

これを補完するのが各県が編纂した統計書ですが、これも完全には残らず、また県ごとに粗密があります。

私の住む京都府では、府立資料館(京都学・歴彩館)に国会図書館にはない京都郵電局の統計書が残っていました。

これらの史料を基に県別・局(所)別の為替取扱数を円グラフで示しました。

比べると一目瞭然、①と②とに峻別されました。

この作業を全国的にやってみるのが今回の展示です。

まず五大都市のうち、東京市から。






















銀座受取所が、神田支局を抜いて2位に躍り出ています。

いきなり卑近な話ながら、リーフに示したグラフはできるだけ為替の振出口数を入れるようにしています。

この口数の比率=それぞれの局・所別の消印残存比率です(近似的に)。確かに銀座や神田はよく見かけます。

第3リーフの霊岸島東湊町は27年2月1日から為替を始めましたが、悩ましいことにこの日に為替を開始した複数の受取所には年型の見つかったところと月型しか見当たらない所とがあります。

第3フレームの郵電局為替印の形式分類でも展示していますが、大郵電から小郵電に切り替わる日付が22年12月1日で重複しています。

尾張の熱田郵電局はこの日から為替業務を開始して大郵電、方や同日に為替を始めた越中泊町は小郵電が支給されています。遞信省が町のはんこ屋さんに縦書印を発注した日付の違いです。

同じことが27年2月1日にも起こったのでしょう。ただそれを証明するデータが手元にありません。致し方なく年型をブランクで展示しました。













赤坂局は局舎も敷地も狭かったようで、リーフに書き込んだ間口・桁行は図面から起こした寸法です。この建坪ですと郵便や小包の区分け作業場所を確保するのが精一杯だったと思われます。

このために二つの受取所が局窓口の代わりを務めさせられたという変則局です。中でも一ツ木が中心で、縦書印の押印回数も多くなり印軸の更新も頻繁になった次第です。













本郷森川町は帝大赤門の真向かいに開業しています。






















3枚のリーフはエンタを入れたために冗長な印象になりました。













東京の最終リーフはいわゆる「下町」です。商取引が少なかったわけではないはずです。淺草は大金の動く吉原があり深川は木場で大きな額の材木取引がありました。

ただそれらは「遠隔地間のリテール決済」ではなかったというだけです。

次は京都市です。













各受取所のうち、その性格を最も顕著に現しているのが六條です。東側に法華宗の本圀寺と東本願寺(本願寺派)、西側に西本願寺(大谷派)を擁し全国の末寺や教務所からの冥加金を受け取っていました。













京都は本局以外では五條支局が最大の為替取扱量を誇っています。東に清水焼の窯元群、北に京扇子の製作地があり両者の内訳は不明ですが、大層な黒字局でした。

このため印軸の更新回数も多く年型と月型とが逆転交差する賑わいぶりです。

また後期に伏見・七條の両支局が出現しますが、リーフに書き込んだとおり郵便業務合理化のための開設局で為替には影響はありませんでした。

上述の「京都郵電局統計書」発見で「良いリーフができた」とうれしがっていましたが、後で考えると実証には不十分で、振出者/受取者のわかるエンタが無ければ仮説の域を出ないことに気づきました。

切手集めは学問でも芸術でもなく唯の道楽に過ぎませんのでどうでも良いようなものですが、郵便史の手法に限っては歴史学、考古学、経済学のそれと同一の厳密さがなければいけません。

次の神戸市については兵庫と神戸とが旧湊川を挟んでそれぞれ別の地域であったことに留意しながら各受取所の特色を見たつもりではあったのですが…













右下の円グラフは明治38年のデータから29年以前開設の受取所だけを抜き出して比率を求めるという間の抜けたことをしてしまいました。

やはり、全局・所を旧神戸と旧兵庫とに分けてその地域性を見るべきでした。













兵庫局は謎だらけです。郵便も神戸との間に交換便があったかどうかさえ解明できていません。横濱の神奈川局のように一般の集配局同士の差立便が存在しただけと見る方が正しいような気がします。

丸二印で横濱や神戸の文字をあれほど毛嫌いしたのはその独立心に発するものと考えています。

大阪に移ります。































順慶町と船塲局とは300mしか離れていません。リーフに両局・所の為替扱い量の比較を入れていますが、順慶町の払渡量が船塲局の倍近くあるのが気になります。

為替の受取人は問屋の町船塲の商店なのか頻繁に令達される憲兵隊本部への公金なのかこれも内訳が不明です。

ちなみに明治29年には、この憲兵隊本部の管轄は近畿・岡山・鳥取となっています。

横濱です。




















リーフのとおり、横濱の中心地から外れた郊外地に開設された局代替の受取所で、郵便の取り扱いが主な業務と思われます。

横濱局から南東に延びる居留地の郵便局利用者は外郵課のある本局に行ったはずです。吉田局のある地域は邦人商店街ですが、縦書印も丸一も見つかりません。

移転前の梅ヶ枝局も移転後の福富局も同様です。リーフの書き込みどおり明治26~28年のデータが消えています。唯一切手売下額のみが記載され、貯金は吉田局の項目はあるものの預・払ともに額の記載がありません。

この時期の遞信省職員錄には支局長以下各職員の氏名が掲載されていますが、支局長はこの3年間、毎年氏名が変わっています。

真相がわからず、リーフでは「開店休業」状態としましたが今後の研究課題です。